倉本聰氏の自伝エッセイ『破れ星、流れた』は、ドラマ化可能なのか? 

倉本聰とは


 倉本聰(そう)さんは、88歳の現役の作家であり、テレビドラマの脚本家です。

 主な代表作は『前略おふくろ様』(1975)、『北の国から』(1981~2002)、『風のガーデン』(2008)など。
 最近では『やすらぎの刻〜道』(2019)という1年間に渡る帯ドラマを執筆。
 80歳を過ぎて1年の帯ドラマと聞いたときは、正直とても信じられませんでした。

 今回紹介する『破れ星、流れた』(幻冬舎)は、そんな倉本聰さんが、戦前の幼少期からを振り返る自伝エッセイです。

『破れ星、流れた』表紙
『破れ星、流れた』倉本聰・著 幻冬舎・刊


 倉本聰は、一貫してエンターテイメントの作家でした。
感動」を伝えるために、笑いという素朴な武器を手に、数々の人間ドラマを書いた脚本家です。
 そんな倉本さんの自伝ですから、随所に笑いを散りばめた作品に仕上がっています。

 後に日本を代表する脚本家になる1人の男が、まだ無名の、何者でもなかった時代を、活き活きと描いています。

 自伝エッセイ『破れ星、流れた』は、昭和を舞台にした、極上の青春娯楽作品です。

作品の構成

破れ星、流れた』は、2つの章から成り立っています。

構成

第1章 おやじの肖像
 戦前の幼少期から、戦後の麻布学園高等部まで。


第2章 青二才の春
 浪人時代から東大を経て、ニッポン放送を退社するまで。


 つまり『破れ星、流れた』で描かれているのは、専業脚本家となる直前の、28歳までの前半生
 多くの読者が期待する、第一線の脚本家としての話は、続編で描かれることになります。残念……。

 本書では、中学で芝居や映画に目覚め、会社に内緒の副業として、脚本を書くようになるまでの過程が。

 気になる続編は、『破れ星、燃えた』として、現在サンケイスポーツ紙上で連載中!
 書籍化前提のためか、ホームページでは見つかりませんでした。
 一日も早い続編出版を切望します!

第1章 おやじの肖像

 第1章はタイトルにある通り、お父さんにまつわるエピソードが中心に描かれています。
 このお父さんが実に何とも魅力的!
 東大出の会社経営者で、句集を出版する俳人、かつ野鳥の会のパトロンクリスチャン

 ここまでは趣味人のインテリ社長としてまだ分かります。
 このお父さん、とにかく正義感が強く、弱い者イジメや理不尽なことを目にすると、見過ごすことが出来ない人なんです。

 殴り合いのケンカも辞さない武闘派で、戦時中に幅を利かせていた軍人を、公衆の面前で罵倒するほどの正義の人でした。

 武闘派クリスチャン、かつ趣味人インテリ経営者

 お父さんの武勇伝を読んでるだけで、ワクワクして笑えます。
 それほど倉本さんは、楽しげに描写しているのです。
 そこには、お父さんに対する尊敬や、深い愛情が。
 家族ドラマの名作『北の国から』のルーツが、ここにあります。




 倉本さんが小学1年生の時、太平洋戦争勃発
 4年生の時、戦況悪化に伴い、山形県に集団疎開
 終戦を迎えたのは、小学5年生でした。

 戦前、東京杉並にお屋敷と言えるほどの大邸宅を構えていた倉本さんのお父さんは、戦後、その資産のすべてを失います。
 再起を図って新たな事業を起こすものの、ことごとく失敗し、失意のまま亡くなりました。
 倉本さんが高校2年生の時でした。

イメージキャスト

 この作品がドラマ化されるとしたら、お父さん役は誰だろう、と考えてみました。

 即座に浮かんだのが渡辺謙さん。
 本書を読んだ8割がたの人がイメージするんじゃないでしょうか。

 でも、それじゃあ当たり前すぎてつまんないんですよね。
 あまりにもハマり過ぎてて、カッコ良すぎる。

北の国から』での主役選びのエピソードです。

 主人公黒板五郎役の候補に挙がったのが、時効だから云うと高倉健緒形拳藤竜也中村雅俊西田敏行などという凄まじい面々。
 その中で、最も情けなく、だらしなく、欠陥だらけに見えるのは誰かという視点から満場一致で田中邦衛氏に白羽の矢が立った。

『愚者の旅』(倉本聰・理論社・2002) P160
『愚者の旅』倉本聰・著 理論社・刊

 正直、高倉健さんの『北の国から』も見たかった!

 それはともかく。
 倉本脚本の特徴は、欠点短所がそのキャラクターの最大の魅力になってることです。

 というワケで。
 信念と同時に破綻を感じさせる役者「佐藤二朗」はどうでしょう。

 サービス過剰なコメディ芝居は封印してもらって、ですが。
 コレ、悪くないと思います。

第2章 青二才の春

東大受験

 大学受験を迎え、志望は東京大学一択でした。
 倉本さんの、というよりお母さんの希望が大きかったようです。

 前年に亡くなったお父さんも、長男も東大。
 ならば当然、次男の倉本さんも東大でなければならなかった。

 何故なら、長男は倉本さんとは腹違いの兄
 つまり先妻さんの子供で、お母さんとしては何としても自分が産んだ次男倉本さんにも、東大に入ってもらわないと面目が立たない。

 それに対する反発や抵抗は一言も無いことから、倉本さん自身、そういうものだと思っていたのかもしれません。
 しかし、現役受験はあえなく不合格

浪人時代

 浪人生活は、なかなか破天荒だったようです。
 予備校に籍を置くものの、家計を助けるために家庭教師のバイトを複数かけ持ち。
 そして自由になる金が入ると、映画館通いも始まり、夜は仲間たちと飲み歩き。
 当然のごとく、翌年も不合格

 こうして2浪目に突入したものの、相変わらず映画館通いは続いていました。
 一見現実逃避のように見えて、結果的にこれは、倉本さんにとってシナリオ修行であったようです。

 このとき1954年昭和29年
 テレビ放送は前年に始まったばかりで、まだまだ映画が娯楽の王様に君臨していた時代でした。


東大時代

 全く自信がないままの3度目の東大受験で、何故か合格
 受かる気がせず、発表日すら忘れてて、友人から知らされた合格でした。

 東大に入学した倉本さんは、そこで一人の男と出会います。
 中島貞夫
 のちに東映の映画監督となる人物です。
 倉本さんにとって生涯の親友となりました。

 そして、東大生となった倉本さんの中で、いよいよ芝居熱が暴走を始めます。

劇団「仲間」

 教授の紹介で「仲間」という劇団の文芸部にもぐり込んだ倉本さんは、あっという間に芝居の世界にはまっていきます。

 新聞とパンフレット作りを任されると、毎日早々に仕事を終え、稽古場の隅で、朝から晩まで稽古の様子に見入っていたといいます。
 それは倉本さんが求めていた、生きた学習でした。

 2年間を、ほぼ劇団に費やした倉本さんは、大学にはほとんど行かなくなっていました。
 当然の如く、成績は低迷。
 専門課程に進級時は、インド哲学考古学美学美術史学科)の3つしか選択肢はなく、消去法で美学を選択しました。

 いや、美学って何だよ! と思わず突っ込みたくなりますが、倉本さん自身、当初よく分かっていなかったフシがあります。

 久しぶりで出席した授業で、ある言葉に出逢います。
美は、利害関係があってはならない
 目から鱗が音をたてて落ちた、と倉本さんは書いています。

 これをこれからの自分の行動の全ての基礎に据えようと思った。
 東大に入った価値があった!
(中略)
 よし、もうこれで東大は卒業
 勝手にそう思い、そう決め込んで、以後すっぱりと本郷通いを断った。

『破れ星、流れた』(倉本聰・幻冬舎) P257

卒業、そして就職

 劇団活動に没頭したツケは、4年生の時、怒涛の如く倉本さんを襲ってきます。
 卒業試験と、就職活動です。
 なにせ教授の顔すら知らず、ノートなんてあるはずもないのですから。

 そのことに初めて気がついた時、体に恐怖でガクガク震え出し、情けないことに止まらなくなった。

『破れ星、流れた』(倉本聰・幻冬舎) P274


 追い詰められた倉本さんの救世主となったのは、後に東映の看板監督の一人となった中島貞夫でした。
 卒業試験に備え、中島さんの実家で2週間の合宿。
 専門課程2年間の空白を埋めるための、「絶望と混沌の日々」と倉本さんは書いています。

 そりゃそうですよね。
 東大の2年分の勉強を、2週間に凝縮するワケですから。
 最後は、中島さんの答案をいかにカンニングするかの研究までしたといいます。

 一方、就職試験
 こちらは、なりふり構わずコネを利用したようです。
 ツテを頼って人事部長に直接会いに行ったり、ついには自民党の大物長老の元を訪ねた、と告白しています。
 その甲斐あってか、ラジオ局のニッポン放送から内定が。

 卒業試験も何とか乗り越えた倉本さんの元に、思いがけない話が舞い込んできます。
 新日本放送、後の毎日放送から、連続ラジオドラマを書かないかというオファーでした。

 当然、「やらせて下さい!」となるわけですが、ここで問題が。
 内定が出たニッポン放送は、内職厳禁
 そこでひねり出した知恵が、ペンネームならぬ偽名を使う作戦。

 ここに、「倉本聰」という名の脚本家が誕生しました。
 ちなみに本名は、山谷馨(やまやかおる)さんです。

 このときのギャラで、お母さんのために白黒テレビを購入。
生まれて初めて親孝行をした」と、倉本さんは記しています。

 1959年昭和34年のことでした。
 この年、フジテレビ開局

ニッポン放送時代

 初任給は、12360円
 それまでバイトで稼いでいた金額の、半分にも足りなかったそうです。

 そこで手当てを稼ぐため、残業の日々。
 一方で脚本執筆も続けていました。


 自分が担当する番組で、ライターの原稿が追い付かなくなると、会社に内緒で代筆稼業に専念し、家計の足しに。
 でもそれは、睡眠時間とのバーターでもありました。

 深夜に帰宅し、夜明けまで執筆。
 そして9時には出勤。
 本業でも次第に認められ、充実した毎日でしたが、身体への負担は確実に膨れ上がっていました。

 その頃、ある脚本家の紹介で、日本テレビのプロデューサーと出会います。
 何故か気に入られ、テレビドラマを書くことに。

「クラモッちゃん責任は全部オレがとる。やりたいようにあんたやってみな」
 こうしてここから僕の一生を貫くテレビ人生が始まった。

『破れ星、流れた』(倉本聰・幻冬舎) P315


 30分1本5万円からスタートしたギャラは、1年後には20万円に。
 それでも会社を辞めるつもりはありませんでした。
 徐々に責任ある仕事を任されるようになっていたのです。
 
 会社に内緒の、日本テレビでの脚本執筆も、倉本さんメインの新たな企画がスタート。

 更に睡眠時間を削る生活が続き、ついに体が悲鳴を上げます。
 激しい鬱に襲われたのです。

 さすがに限界を感じ、そろそろ退職を考えるべきか、と思っていた矢先、とんでもない事件が発生します。
 収録済み放送用テープを紛失

 放送は翌日の朝6時40分から。
 録り直そうと考え、出演者2人の事務所に連絡。
 当時売れっ子だった渥美清は、午前3時なら空くという。
 しかし、もう1人の水谷良重は、ヨーロッパ旅行中……。

 これで終わりだ。全部終わりだ。どうしようもない。全ては終わった。明日放送に穴が開く。全ては終わった! これで終わりだ!

『破れ星、流れた』(倉本聰・幻冬舎) P323


 録り直すにしても、渥美清1人では成立しない。
 水谷良重がいなければ……。
 茫然自失のまま午後10時を回っていました。

 その時である。
 突然天啓がひらめいた。
 神かおやじが、ふいに天から舞い降りたとしか云い様がない。

『破れ星、流れた』(倉本聰・幻冬舎) P324


 突然のひらめきから猛然と動き出し、渥美清の協力もあって、放送ギリギリで間に合わせることが出来ました。
 その天啓とは……本書でご確認下さい。

 辞表を提出すると、部長は黙って受け取り、同僚たちも「ア、ソウ」で終わったといいます。

 4年間の退職金は、仕事机と万年筆に。

 専業脚本家への第一歩を踏み出した瞬間でした。

 1963年昭和38年
 倉本聰28歳

ドラマ化への懸念

 本書『破れ星、流れた』で描かれるのは、ニッポン放送退職のここまで。

 現在サンケイスポーツ紙上で連載中の続編『破れ星、燃えた』では、いよいよ一本立ちした脚本家になってからの物語になっていると思います。

 ここで予想されるのが、倉本さんの脚本家人生最大の事件に、当然触れるであろうということです。
 これがきっかけとなって、倉本さんは生まれ育った東京から、北海道に移住することになります。

 その事件とは、NHK大河ドラマの降板劇

大河ドラマ『勝海舟』降板事件!

 渡哲也主演の大河ドラマ『勝海舟(1974)は、波乱含みでスタートした作品でした。
 主要キャストと演出家の衝突。
 主役・渡哲也の病気による途中降板
 松方弘樹への交代。

 倉本さんと演出スタッフとの間にも、不穏な雰囲気がありました。

 倉本さんは脚本が上がると、必ず「本読み」という場に立ち会うのを決まりごとにしていました。
 これは台本の意図や、セリフのニュアンスを、俳優や演出家に正確に伝えるため、倉本さんにとって欠かせぬ仕事でした。

 ところがこれに現場の演出陣が、演出家の職域を侵害していると不満を抱くようになったのです。
 上層部に改善を申し入れたものの、上手くいかず。
 どうやら当時のNHKでは組合の力が強く、労使関係がデリケートな時期だったようです。

 そうこうしているうちに、ひとつの週刊誌記事が出ます。
倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言
 倉本さんのインタビュー記事でした。

 何度もゲラのチェックまでして、スキャンダラスな記事にならないよう配慮したのに、タイトルまでは確認してなかったのです。

 この挑発的なタイトルの記事が問題となり、倉本さんはNHKの現場スタッフから、1時間にもおよぶ吊るし上げにあうことに。
 1人ずつ順に倉本さんを批判していき、20人近いスタッフのうち、倉本さんを擁護したのは2人だけでした。

 やっと解放されNHKの西口を出た時、ふいに涙が胸底から突き上げた。この顔を家人には見られたくなかった。サングラスで目をかくしタクシーに乗って羽田と告げた。
 北海道へそのまま飛んだ。
 昭和49年6月17日のことである。

『愚者の旅』(倉本聰・理論社) P93


 札幌に仕事場を構えた倉本さんは、その後も『勝海舟』を書き続け、北海道から原稿を送っていました。
 しかし体調を崩し、ひと月の入院を余儀なくされたことから、病気降板することに。

 これが大河ドラマ降板事件のあらましです。

 ここで1つ付け加えておきます。
 これまでのてん末は、倉本さんの著書を元にまとめたものです。
 現場スタッフ側にも、当然言い分はあります

 倉本さんに、傲慢(ごうまん)と受け取られるような態度はなかったか?
(たとえそんなつもりはなかったとしても)

 組合問題にしても、現場職員はあくまでも組合員であり、組合は彼らの職場環境を守る責任がある。
「作品づくりの現場として如何なものか?」というのは、組織外の人間の無責任な意見ではないか、というのは正論だと思います。

 以上、公平を期す意味で念のため。

降板劇、その後

 NHKとは1999年に『玩具(おもちゃ)の神様』。
 2003年には野沢尚氏、三谷幸喜氏との共同脚本で『川、いつか海へ 6つの愛の物語』という作品を執筆。
 このことからも、一応の和解は済んでいるようです。

 実は僕自身、一度だけ倉本さんをお見掛けしたことがあるのですが、それはNHKの局舎内でのことでした。

 その時のことを、下の記事の最終部分に書いています。



ドラマ化はいかに?

 長い説明になりましたが、結局ドラマ化はどうなるのでしょう?

 NHKに関して。
 続編で書かれるであろう、この降板劇を抜きにしたドラマ化はちょっと考えられません。
 脚本家倉本聰にとって、人生最大の事件ですから。

 半世紀近く前のことなので、当時のNHKの現場スタッフはほぼ定年を迎えていると思われます。
 じゃあ問題ないかというと、そうもいかない。

 当時の現場スタッフであるOBを無視して、倉本さん目線だけのドラマには出来ません。
 組合問題を自ら取り上げるのにも抵抗があるでしょう。

 早い話が、NHKとしては、寝た子を起こすようなことをしたくないのでは、と思うのです。

 それでは民放はどうか?
 局内的なしがらみは無いとはいえ、他局のトラブルをどう描くかという難しさはあるでしょうね。

 最近の流れから、NetflixDisney+といった配信系による制作もありえます。

 その場合、公開形態をどうするか?
 当然、ネット配信が自然な流れだと思います。
 でもテレビをベースに実績を積んできた倉本さんとしては、やはり公開の場は、テレビにこだわるのではないでしょうか。
 そうなるとまた、NHKと民放の堂々巡りになり……。

 いずれにしても、倉本聰さんのこれまでのドラマ界への功績を考えても、集大成のドラマ化のために、大人の解決法が見つかることを願うばかりです。

最後に

 今回は、脚本家・倉本聰さんの自伝エッセイ『破れ星、流れた』を紹介しました。

 長い記事にお付き合い下さり、ありがとうございます。

『破れ星、流れた』は、昭和という時代と、後に日本を代表する脚本家となる男の前半生を、活き活きと描いた極上のエンタメ作品です。

 1日も早い続編の書籍化と、ドラマ化が実現することを願って。