初めまして。このブログの管理人、カワセミです。
ブログ『よむ、みる、あるく。』は、小説や脚本といった書籍にまつわる「よむ」、ドラマや映画といった映像についての「みる」、そして日課である散歩や生活雑感の「あるく」を3つの柱としています。
なぜこのテーマを選んだのかを知ってもらいたくて、僕自身のプロフィールをまとめてみました。
学生時代
出身は九州で、高校を卒業後、進学のために上京。
ごくごく平凡な学生生活でしたが、人生で最も集中して読書に時間を費やした時期でした。
小説中心の乱読でしたが、子供のころからドラマや映画が好きだったこともあり、次第に脚本にも興味を持つようになりました。
倉本聰、山田太一、向田邦子といった方々のシナリオ本が、書店の店頭に平積みになっていた時代でした。
当時、色々なアルバイトをやっていたのですが、その一つが放送局でのADのバイト。
大学を卒業するタイミングで、月曜から金曜の帯の情報番組が始まることになり、ADとしてフルタイムのバイト生活をすることを選択しました。
就職は全く考えていませんでした。
脚本家になると、何の根拠もなく信じていたのです。
バイト生活時代
その頃、一人の脚本家と出会い、それが大きな分岐点となりました。
師匠として多くのことを教えてもらったのですが、僕のことは、「脚本の仲間」と呼んでくれました。常にどんな相手ともフラットに接する人でした。
そしてこの師匠の紹介で、「プロットライター」の仕事をするようになったのです。
プロットライターとは、制作会社からの依頼でドラマのストーリーを組み立て、企画書の体裁に作り上げるライターのこと。
そのほとんどは、脚本家を目指している人達で、僕もその仲間入りをしたのです。
ADのバイトと、プロットライターの二足のワラジ生活の始まりでした。
チャンスは突然
「至急ホン(脚本)を書いてほしい」と、知り合いのプロデューサーから連絡があったとき、
「やらせてください!」と反射的に答えたものの、説明を受けるうち、大変なことになったと、一気に興奮が冷めていったのを覚えています。
僕がプロットを書いた2時間の企画が通り、ある著名な脚本家が準備稿を書いたものの、スケジュールの都合で降板することになったというのです。
与えられた時間は3日。
3日で2時間のホンなんて書いたことありません。
でも自分でプロットを書いた企画だし、準備稿があるのならそれをベースになんとか……と思ってたら、準備稿は1行も使ってはいけないと言います。
どうやら深ーい大人の事情があるようでした。
デビューのチャンスを前に、迷ってる時間はありません。
ただもうがむしゃらに書いて、ヘロヘロになりながらも、なんとか締め切りまでに間に合わせることが出来ました。
もちろんそれで終わりではなく、何度かの書き直しを経て決定稿が上がったとき、体重が4キロ減っていました。
3本の脚本作品を書いた後、ADのバイトを辞め、専業ライターへ。
30歳になるひと月前のことでした。
脚本家時代
デビュー作の時のような無茶ぶり発注は、その後も何度もありました。
早く書くというのは、駆け出しライターにとっては、生き残るための必須条件なのです。
2021年1月期に放送された福田靖さん脚本の『書けないッ!?』は、そんな脚本家の業界あるあるネタ満載で、抱腹絶倒もの! これ傑作です。業界内視聴率が異常に高かったと聞きます。
さて、脚本家時代については、実はさほど書くことはありません。
良い時もあれば低迷期もあり、それはどんな仕事の世界も同じでしょうから。
テレビドラマ業界は、世の中の景気をそのまま反映する世界です。
企業の経営状態が悪くなれば、まず広告宣伝費が削られ、それはドラマ企画の採用数が減ることを意味します。
結果、制作会社は慌てふためき、最末端の脚本家は干上がるという、実に分かりやすい図式です。
そんな不景気を何度も経験しながら、それでも何とかライターを続けていけたのは、師匠が仕事を回してくれたおかげでした。
でも確実に時代は変わっていたのです。
2時間ドラマの枠が激減していったことが、それを如実にあらわしていました。
決定打となったのは、老舗2時間枠の『火曜サスペンス劇場』の終了。
脚本家仲間に衝撃が走りました。
『火サス』には一つ、強烈な記憶があります。
1995年、放送予定だった僕の脚本作品が、オンエア延期となったのです。
その日、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生した日でした。
当然ドラマは飛び、僕自身、報道番組に釘付けになりました。
その『火サス』が終了するというのです。
そろそろ潮時かな、と思い始めた頃でした。40半ばになっていました。
サヨナラ東京
東京での脚本家生活に終わりを告げ、帰郷を決断した最大の要因は、自分の才能の限界に見切りを付けたことでした。
好きで選んだ道に、限界を認めるのは、もちろん容易なことではなかった。
でも、今回は乗り越えることが出来るかもしれないけど、次はどうだ?
5年後、10年後、それが訪れた時、果たしてしのげるのか? 俺は幾つになってる?
……撤退のときだな、と思いました。
仲間たちが送別会を開いたくれた席上、師匠が泣いてくれました。
何よりの餞(はなむけ)でした。
ただいま九州
というワケで帰郷。
何でもある東京での便利な生活から、一転して無いないずくしの田舎生活。
さぞかし滅入るかと思いきや、自分でも意外でしたが、それほどのことはありませんでした。
ネット環境は以前より向上したぐらいで、東京との情報格差がなかったのが大きかったと思います。
仕事はというと、実は帰郷後も、企画書や脚本の手伝いを細々と続けていました。心配した師匠が、仕事を振ってくれたのです。
仕事があるのも勿論ありがたかったですが、まだ繋がっているというのが、何より精神的な支えになっていました。
ところがそんな矢先、俄かに肉体的な問題が発生したのです。
視界が霞み、視力が急激に落ち、書くことはおろか、読むのも難しくなり……。
白内障でした。
再発、更に……
白内障というのは、命に係わる病気ではないのですが、日常生活にこの上なく不自由を感じるようになりました。
読書スピードが体感で5倍遅くなり、目のかすみから画数の多い漢字は潰れて読めず、前後の文脈から推測するという有り様でした。
本を読むのはもちろん、あれだけ好きだった映画やドラマを見るのも負担になっていました。
それだけに、手術後、世界が一転して明るくクリアに見えた時は、感動すら覚えたほどです。しかも高校時代からの必需品だったメガネが、必要なくなったのですから。
でもその快適さも長続きはしませんでした。
3年後、手術で入れた人工の眼内レンズがズレるという症状が起き、再手術。
無事成功し、やれ嬉しやと思ってた半年後、今度は左目の網膜剥離。
『踏んだり蹴ったり』というのは、こういう時に使う日本語なんだな、と実感しました。
手術と1週間の入院生活を終え、ようやく解放された頃、コロナ禍が日本に忍び寄っていました。
そして今
思いがけず長い自分語りになりました。お付き合いいただき、ありがとうございます。
今現在、目の方は至って快調! いずれまた問題が生じる予感はありますが、それはまたその時のことだと割り切ってます。
ドラマの仕事は、今は完全に離れてしまいました。
白内障の2回の手術の間に、師匠が亡くなってしまったのです。
ドラマについて、脚本に関して、膨大な時間を共有した人でした。
僕の人生を、ここまで引っ張ってくれた人でもありました。
仕事として「書く」ことから離れた今、離れたからこそ、改めてドラマや映画、そして小説や脚本について書いてみたくなりました。
1本の映画、1冊の本が人生を変えることを、経験として僕は知っています。
ひとつのドラマが、次の日のエネルギーになることを、誰もが知ってます。
そんな作品と出会うきっかけになりたいと思い、このブログを立ち上げることにしました。
最新の作品はもちろん、忘れられた過去の作品、そしてなにより好きな作品たちを紹介します。
今まで素通りしていたドアの向こう側に、実は思いがけず、新しい世界が広がっていることを知る体験の、案内役になれれば嬉しいです。
管理人・カワセミ